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思いついたまま書いているブログです。お付き合い下さい。

幕末 老中首座 阿部正弘は腰の据わった、先の見える大人物。

ついに鎖国が廃止され開国へと進む

オランダからの「別段風説書」等の献上で国外の情勢を知った、筆頭老中の阿部正弘はどのような手を打ったのでしょう。

 

老中の阿部正弘とは

 

海岸防禦御用掛(海防掛)を設置し、外交・国防の問題に当たらせ、韮山反射炉を作り、大砲を量産させた阿部正弘は、

薩摩藩主の島津斉彬水戸藩の水戸斉昭等の諸大名から広く意見を求めた。

 

その他、大胆な人材登用も実施した。永井尚志、大久保忠實、勝海舟、ジョン万次郎等もその一人であった。

私財を投資して、人材育成のための藩校の「誠之館」に身分にかかわらず人材育成に当たる。加増された1万石も「誠之館」につぎ込んだと言われる。ゆえに藩の財政は火の車だったと言われる。

 

アメリカやロシアから国交を求められる。

 余談ですが、1854年プチャーチンの旗艦ディアナ号は突然襲ってきた、大地震と大津波により大破し、富士郡宮島村沖で沈没します。乗組員約400名は無事に全員日本人により保護されます。

 

尊王攘夷派の台頭

徳川斉昭を中心に攘夷派が台頭してきます。

 

尊王攘夷とは

天皇を敬い外敵(外国)を撃退する思想です。

武士は徳川幕府天皇に代行して、政治を行っていると見ています。

 

そして、当時の天皇は異人が国内に入る事を極端に嫌っています。

天皇を重んずることは夷敵を撃つという事に結びつきます。

 

その中心的存在が徳川家御三家の一つである、水戸徳川家徳川斉昭です。

徳川斉昭は最後の将軍である徳川慶喜の実父である。

 

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ペリーロード ペリーが通った道らしいです。

正弘は諸大名(外様も含む)や一般知識人の意見を募ったが、有効な対策は打ち出せずにいた。

島津斉彬等の意見を入れ、徳川斉昭を海防掛参与に任命した。

これに依り、外様大名は幕政への介入の原因となり、雄藩の発言が強化される。

朝廷の権威の強化にもつながった。

 

ついに

1854年、ペリーが再来航します。


日米和親条約の締結

1854年3月3日、日米和親条約が締結されます。

これにより、約200年続いた鎖国政策は終結した。

 

阿部正弘の部下は堂々と立派に応対します。

一部の小説家が言い切る様に「弱腰外交」ではありません。

堂々とペリーと渡り合います。

 

条約締結は日本の置かれている状態を理解している、正弘の先の見える決断です。

後の井伊直弼の暗殺に見られる様に、相当な批判を浴びる事を覚悟しての決断です。

 

命を賭けた決断です。

 開国派には井伊直弼等がおりましたが、攘夷派の徳川斉昭の圧力で二人の開国派の老中が罷免されます。

斉昭は徳川御三家の一つ水戸家ですから、地位的には官僚たちより上です。

 

 開国派と攘夷派の両派を和解させるため、老中首座を開国派の堀田正睦に譲ります。

 

正弘のその後の行動

幕府や国内での騒ぎの中で、海防の強化に努める事となる。

安政の改革

  • 西洋砲術の推進
  • 大船建造の禁の緩和 等

正弘はその任に当たらせるため

勝海舟大久保忠寛、永井尚志、高島秋帆らを登用した。

などを創設。

老中在任のまま39歳で死去

安政4年6月17日(1857年8月6日)、老中在任のまま江戸で急死した。享年39。

阿部正弘には「優柔不断」「八方美人」「瓢箪鯰(ひょうたんなまず)」とあまり良くない評価があるが、

 

 

私は、これは当たらないと思う。

正弘が恐れたのは、国が割れ、列強諸国に隙を見せる事である。

冷静に状況を把握する頭脳を持っていたと思われる。

 

アジア情勢を知らず、いたずらに攘夷を叫ぶ勢力をなだめながら、着々と近代日本に必要な手を打っていく手腕は現代の為政者も見習う点が多い。

 

 阿部正弘が短命で無ければ、もっと違った日本になったはずと思うのは私だけでは無いと思う。

 

 

 

私は、幕末に興味があります。多くの人物が出てきます。

現代では狂人としか思われない人も中にはいます。

乱世って不思議ですよね。

 

その人たちがいて、現代の日本があります。

たまに、続きを書こうと思います。

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Wikipediaさん等を参考とさせていただきました。有難うございます。

 

ここまで読んで下さり、有難うございました