hirono-adarihodori

思いついたまま書いているブログです。お付き合い下さい。

幕末 日本の一大転換期でした。意外に幕府側の方が人材が多い。時の流れか。

日本が燃えた

暑い日が続きます。皆さんどのように過ごされていますか。

昨日、墓参りに行きましたが、往復4時間以上かかりました。

 

山道の道路を昇って行くと道端に緑色の栗のイガが数個落ちています。

暑くても、季節は秋に向かっています。

 

エアコンは点けているのですが、ちょっと外に出るだけで玉の様に汗が流れてきます。

まるで、燃えているような暑さです。

 

今日は終戦記念日です。いつも暑い日ですね。

 

 

幕末、日本中が燃えました。

 

f:id:hiro-hitorigoto:20180806211107j:plain

幕末とは

日米和親条約締結(安政元年:1854年)から徳川15代将軍徳川慶喜による大政奉還(慶応3年:1868年)の13年間です。

 

政権移譲迄の30、40年間という説もある。

 

徳川家康が1603年に征夷大将軍となり、幕府を江戸に開きました。

そして、徳川慶喜大政奉還を宣言しました。

 

f:id:hiro-hitorigoto:20180809215831j:plain

これにより、源頼朝より続いた武家政権は終わりを告げました。

 

なぜ、大政奉還に至ったか

その頃、日本を除くアジアはイギリスやフランス等の列強諸国の植民地となっていました。

一歩間違えれば日本も植民地とされ、今の日本は別な形になっていたかもしれません。

 

たまたま、列強諸国はイギリスとのアヘン戦争に敗れた清の割譲に明け暮れ、日本に手を伸ばす余裕が無かったという事情がありましたが、いずれは日本の事が視野に入ってくるはずでした。

 

アヘン戦争とは

アヘン戦争終結したのは1842年8月2日です。

日本では、水野忠邦により天保の改革が行われた頃です。

 

アヘン戦争に至るまでの経緯

初めはイギリスも、まともに清との貿易をしていました。

 

清の輸出品は「お茶」や「絹」でした。これは大量に生産できます。

対するイギリスは「綿」です。

 

清にとって「綿」は需要が無く

結果、当然イギリスは赤字になります。

 

この当時、イギリスはインドとも貿易をしていました。

インドはアヘンを生産していました。

 

これをイギリスは清に対して売り込もうとします。清の担当官僚は表面的には断りますが、裏では賄賂を受け取り国内に流通させていました。

急激に国内にアヘン中毒者は増えていきます。

 

中国の歴史を見ていると、世界では珍しく官僚の腐敗で別の国が支配者に変わっていきます。秦も漢もそうですね。

 

元々、清はアヘンの流通販売や摂取を禁止していましたが、

役人の腐敗で取り締まりが緩かったようです。

イギリスはこの清国官僚の腐敗を利用しアヘンを国内に浸透させました。

 

当時、世界の貿易の決済は「銀」です。

清の国家予算の数割の銀がイギリスに流れていきました。

 

国内にアヘン患者が急増していきます。

ついに、清の中枢に知られてしまいます。

 

イギリスは清の担当役人に賄賂を渡して丸めこもうとしましたが、この役人は珍しく誠実な人で拒絶しました。

 

そして、彼は清に入る前のアヘンに石灰を混ぜて海に捨てました。

普通なら、イギリスは世界的にバッシングを受けますが、当時は違います。

 

基本的にアジア人を舐めています。

 

イギリス商船の船員は商売が出来なくなり、不満が爆発し清の人を酔った勢いで殺害したりしました。

 

怒った清はイギリス側に対して食料の調達を差し止めました。

からしか食料を得る道が無いイギリス商船は、大砲を打って恫喝したりしました。

まるで海賊です。

 

一度は和解の気配も見えたのですが、イギリス海軍の到着により事態は一変します。

双方で争いが始まりますが、圧倒的武力の差により、2年の後、清は敗北します。

 

その結果、香港を割譲するなどの不平等条約となる南京条約が締結されます。

1842年の事です。

 

アジア、特に東アジアは列強諸国にとって結構な魅力ある地域です。

海の超大国イギリスは中国を戦争で侵略し、陸の大国ロシアは一年中凍らない港=不凍港を求めて満州へ南下しています。樺太や北海道にも食指を伸ばします。

 

日本はその情報をどうして知り得たのか

江戸幕府は長く鎖国をしていました。

これはこれ以上キリスト教の布教を禁止する為です。

しかし、西洋諸国の中でただ一つ、長崎の出島でオランダと交易をしていました。

 

オランダはキリスト教の布教はしないと幕府と約束したからで、胸中では日本との貿易を独り占めしたいとの思惑があったためです。

 

 

その当時、日本が交易をしていた外国は他にもあります。

四口と呼ばれた海外貿易の地からです。

  • 松前口 蝦夷
  • 津島口 朝鮮
  • 長崎口 オランダ、中国
  • 薩摩口 琉球
 
 幕末の日本は世界情報に疎い訳では無い

幕府は世界情勢を知るために

オランダに年に1度「オランダ風説書」というものを献上させている。

特に、アヘン戦争を知るに至って

もっと詳しい世界情勢を知るために「別段風説書」を献上させている。

 

よく幕末を描いた書物に

日本は世界情勢に疎かったとありますが

全くの知識不足です。

 

オランダは日本に軍艦を派遣しました。

そして、親書を手渡します。

内容は

  • 世界に対して開国を促す
  • 親書の提出 アメリカが軍艦を率いて日本に来るという内容です。

幕府は開国は拒否しますが親書は受け取りました。

このアメリカの軍艦と言うのは1846年のビッドルの事です。ペリーの前にも来ているのです。

 

オランダが献上した1852年の「別途風説書」には

アメリカのペリーが率いる艦隊4隻が1853年に江戸に来航するというものです。

 

幕府はビックリ仰天しました。

老中の阿部正弘はこの事を秘密にしました。

無用の騒ぎを起こさせないためと、自他の軍備力の差がありすぎて即座には判断できなかったのでしょう。

 

しかし、以前に海防の必要性を力説した人たちはいました。

ロシアの南下に伴い、海防の必要性を説いた

林子平の「海国兵団」がそうですね。

 

自ら版木を作り1787年から1791年にかけて全16巻を作成した。

 

実にペリー来航の62年前、アヘン戦争終結後の南京条約締結の51年前です。

 

『日本は海に囲まれているから、どこからでも外国は日本に来る。

国防のために長崎だけでは無く江戸にも砲台を置くべきである。』

 

f:id:hiro-hitorigoto:20180815160134j:plain

と力説しました。

 

幕府はいたずらに人を惑わすものとして、罰します。

仙台藩の人で、墓がある龍雲院の町は、

子平の名にちなんで子平町と名付けられています。

 

子平はこう述べています。

「親もなし、妻なし、子なし、はん(版)木なし、

かねもなければ、死にたくもなし」

 

何処かで聞いたことはありませんか。

 

不遇のうちに世を去ります。

 

幕府の対策

オランダの情報を受け、幕府は対策は打ちます。

「海防掛」を再設します。

苦しい財政の中から、伊豆の韮山反射炉を建設し、大砲の製造を命じます。

 

何しろ日本の装備は鎖国前の火縄銃が主力武器です。

戦国末期とほとんど変わりません。

 

戦国末期であれば世界最強の軍隊のひとつかも知れませんが、

265年前の火縄銃を並べても、玉は届かないでしょうね。

 

まるで「浦島太郎」です。

 

 

日本の知識人が対策を練る

とにかく、日本が危ういという自覚を持った人たちが行動します。

 

幕府にも先見の目を持った人はいます。

前述の老中阿部正弘もそうです。

 

 

私は、かなり以前から「幕末」に興味がありました。

長年の大平の夢から覚めた浦島太郎「日本人」は、国中ひっくり返るような大騒ぎになります。

 

国家のあり方について様々な対策案が出てきます。色々と個性のある人が出現し国を良い方へと導こうとします。道半ばで倒れた人も大勢います。

 

ついには敵味方に分かれ争います。

勝てば官軍とよく言われますが、負けた賊軍にも興味を引き付ける人が大勢います。

 

そんな人たちを記事にしたいとこれを書き始めました。

なるべく私見を混ぜない様にしたいと思いますが、書いてみないと分かりません。

 

良かったらお付き合いください。

 

www.adarihodori.com

 

ここまで読んで下さり有難うございました。