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思いついたまま書いているブログです。お付き合い下さい。

稀代の策士 清河八郎 結果的に意に反して新撰組が誕生する。

庄内の天才児 幕末をかける

大分前、家族でキャンプをする為に山形の日本海を目指しました。

買ったばかしの日産テラノの屋根にキャリアを取り付け、テントや様々の物を

乗せ、自転車のチューブできつく固定します。

 

今でも古チューブが市販の固定器具より便利ですね。

何しろ、傷さえなければ切れる事はありません。

 

購入した時、「東北で第1号車です。本来は輸出用です。」

と、店員さんに言われました。

 

成る程、町で車を走らせると、皆が私の車を興味深げに見ます。

 

数少ない自慢話の一つです。

 

聞き覚えのある神社の名前

旅行の途中、清川八郎神社が目にとまりました。

私は幕末が好きで、よく関連した小説を読みます。

 

司馬遼太郎の「燃えよ剣」「竜馬が行く」その他の小説家の本も。

 

必ずと言ってよい位に「清河八郎」の名が登場します。

 

「そう言えば山形の人だったな」

よく山形から江戸や京都その他を歩いたものだな

という位の印象しかありませんでした。

 

予定にはなかったのですが、急遽見学する事に。

 

木造の古びた神社で年寄りの男性に案内され、中を見学させてもらいました。

八郎が読んでいた書物とかが置いてありました。

 

子供たちが走り回るので、余り長くは見学できませんでしたが。

私にとっては嬉しいひと時でした。

 

生い立ち

出羽(今の山形)の庄内藩清川村郷士、斎藤家の長男として生を受ける。

長男なのに八郎・・・なんか変ですね。

八男だと思っちゃいますよね。

 

清河八郎の名は自分で改名したもので、

 

幼名は元司、名は正明。

 

簡単に言うと本名は斎藤正明です。

 

郷士とは農村に土着した武士。

あるいは土着の農民ではあるが武士の待遇を受けている家柄です。

 

斎藤家は荘内で一番の醸造家で裕福でした。

郷士の清河が他の幕末の多くの志士たちと違い、

金周りが良かったのは、実家がかなりの資産家であったことです。

 

八郎は親孝行だったようです。

母親を伴って旅行に出かけています。

長野の善光寺、伊勢、奈良、名古屋、京都、大阪等、広範囲の大旅行です。

母親は大満足だったと思います。

 

しかし八郎の家は相当な財力があったのが、これで伺えます。

 

推測ですが、この旅行で様々な人と会い日本国内外の情報を集めており、国家を憂いる有名人と会っていたはずです。

 

お母さんは良い隠れ蓑ですね。

 

幕府の役人の目には親孝行な息子としか見えません。

 

この辺にもしたたかな策士の片鱗が見受けられます。

目的の為には母親も利用する。

 

他の幕末の偉人とはこの辺から違ってきます。

 

八郎は江戸在学中に神田お玉が池の千葉周作の下で、北辰一刀流を学び免許皆伝を授かっています。

 

ちなみに、坂本龍馬は周作の弟である桶町千葉の千葉定吉より

免許皆伝を受けています。

 

 

風雲急を告げる中央へ

ペリーが来航し、幕府の要人も時節を認識し国交を結ぶと、

反対派が台頭してきます。

 

国交を結ぶ弱腰と受け止められている幕府と相反して世界観が皆無な人たちが、

天皇を中心にして夷敵を打払う、いわゆる尊王攘夷運動を起こします。

 

八郎も、同じような思想を持っていたようです。

何しろ、アメリカ等は京都に近い兵庫の港を開講してくれと要求しましたから。

 

極端に異人を嫌う、天皇の意向が影響したのです。

要するに、天皇を取り巻く側近たちが無能だったという事です。

 

世の中を知らない別世界の貴人たちには、欧米の人が恐ろしかった。

只それだけの脳しか持ち合わせていない。

 

天皇は彼らの言う事を信じるしかありません。

禁裏は時間が停まっていたのでしょうか。

 

幕府を騙し、浪士隊を結成

安政7年、桜田門外の変が起こりました。

井伊直弼が襲われたところには大名屋敷が並んでいます。

誰一人、時の大老が襲われているのに助けようとする侍がいません。

 

 

これは重大な事です。

助けに行けば、井伊直弼は殺されずに済んだかもしれません。

それだけ、井伊直弼の攘夷派に対する弾圧は度が過ぎていました。

 

人心が離れた、為政者程惨めなものはありません。

 

幕府は終わりだ。

 

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世を憂いる誰しもがそう思いました。

 

八郎策をこうじる

井伊直弼の結末を聞いた八郎は考えます。

考え付いたのは、浪士隊結成。

 

八郎は山岡鉄舟を通じ幕府の政治総裁である松平春嶽に、急務三策を提唱します。

攘夷の断行、安政の大獄に対する恩赦、天下の英才の教育の三策です。

 

これは攘夷志士たちに手を焼いていた幕府にとってはもってこいの策でした。

 

八郎はアメリカの通訳であるヒュースケン殺害に関与したと疑われ、幕府から手配されていました。

 

大獄の恩赦で罪を免れます。頭良いですね。

 

次いで将軍家茂の上洛に対して、

警護する為の浪士組を組織すべしと幕府に提案します。

この案は採用され、234名が募集に応じ集まる。

 

意図とは逆に「新撰組」を作る結果に

八郎は京に着くと、その日の夜に新徳寺に浪士を集め

我々の真の目的は将軍警護ではなく、尊王攘夷の為の先鋒である。

と明かします。

 

幕府の重臣も浪士たちもビックリします。

翌日、朝廷に対して建白書を上奏し受理されますが、

 

幕府は、この不穏な動きに対して、

江戸に帰還するよう命じます。

 

これに反し、あくまで将軍警護のために京に残ると決めた一団があります。

後に新撰組を組織する近藤勇土方歳三芹沢鴨です。

 

 

皮肉な事に八郎は尊王攘夷派に対しては、最悪の新撰組誕生のきっかけを作ることになりました。

 

非業の死を遂げる

八郎はその後横浜の外国人居留地の焼き討ち等を計画した。

 

幕府にとっては危険分子である。刺客が放たれていたが、容易に打てる相手ではない。

何しろ北辰一刀流の免許皆伝で、道場を持つほどの剣客である。

 

並みの剣術自慢の物が挑んでも歯が立ちません。

何十人で挑んでも殆んどが倒されるでしょう。

 

20%が倒されれば彼らは闘争本能を失い、本来の実力が出せません。

人間とはそんなものです。

 

坂本龍馬もそうです。

その気になれば快刀乱麻を演じられるのに、

人を切ったという事例は殆んどありません。

 

手に負えない彼らを倒すには、騙すしかありません。

 

暗殺しなければ、今の日本は違う形になっていたかもしれません。

何しろ、有能な志士たちは維新の前に殆んど道半ばで斃れ、明治政府の中央に座った人たちは2流3流の人達でした。

 

木戸孝允(長州の桂小五郎)と大久保利通は生き残りますが、

西郷隆盛西南戦争で敗死します。

 

八郎が生き残って何をなすかは興味がありますが。

 

 

 

卑怯な手段で殺されます。

暗殺者の一人は旗本の佐々木忠三郎。

講武所の剣術指南で「小太刀日本一」と言われた男で、

後に幕府お抱えの「見回り組」の幹部となる。

 

八郎は、寄宿していた山岡鉄舟の屋敷を出た後、麻布一の橋にさしかかった時、

前方にいた武士が

「清河先生ではありませんか」と声をかけ、編み笠を外した。

 

礼儀上、相手が編み笠を外して挨拶をした時は

自分も編み笠を外さなくてはならない。

 

これは武士の礼儀です。

まさか、この様に礼儀正しい武士が自分を襲う刺客だとは誰も思いません。

 

この時、さすがの八郎も油断があった

編み笠を外そうと両手で紐を解こうとした時、

 

背後から別の侍に一刀のもとに切り殺されてしまった。

 

講武所の剣術指南がこの様な策を弄するのは

如何に清河八郎の剣術の腕を恐れていたか想像できますね。

 

稀代の策士も相手の策にまんまと乗ってしまった。

でも、彼は策士と言われるが地位も後ろ盾も無い男である。

 

実家が裕福で、金の心配だけは無かった訳であるが、

そういう男が天下を相手に行動する為に、策を弄するしかないのは

当然かもしれない。

 

この辺が竜馬と違うところで、

今一、八郎の評価が低いのはこの辺ですね。

 

 

山岡鉄舟のもとに八郎の同志から彼の首が届けられます、

彼は傳通院に葬ってもらうことにした。

 

後に、

役人に捕らえられ激しい拷問にも耐え、八郎の居場所をはかなかった女性がいます。

愛人の「阿連(おれん)」です。

 

彼女は獄の中で「はしか」を患い庄内藩に預けられ死亡します。

鉄舟は悲しみ、彼女を同じ寺に墓を建てて葬った。

 

異常な時代に生まれた男女の悲しい最後である。

 

 

ここまで読んで下さり、有難うございました。