あだり ほどり

思いついたまま書いているブログです。お付き合い下さい。

せごーどんの薩摩 戦国時代、幕末を通じて日本最強。そして何故情報に詳しくなったのか

大河ドラマのせごーどんは終了しましたが、なかなか面白いドラマで

最初から最後まで全編見てしまいました。

その後、なぜここまで日本の端にある薩摩が世界の情報に詳しかったのか興味を

持つことに。

琉球(今の沖縄)を占領し、そこを通じて中国を始めとしてアジアの情勢を

収集し、どこの藩よりも世界の事を知っている薩摩。

興味津々です。

 

遠く離れた薩摩藩が何故、中央の情報に詳しいのか

幕末に長州と共に討幕のリーダー格であった薩摩。

中央の情報を良く把握していたと言われます。

 

日本列島の最西南端に位置する薩摩藩が何故そのような事が出来たのか。

 

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目次

 

薩摩九州制圧寸前で秀吉に敗れる。

関白秀吉が1590年北条氏を滅ぼし天下統一の偉業を達成させました。これで長い戦国時代は終ります。

 

その数年前、薩摩の島津氏は九州全土をほぼ征服し、残る豊後(大分)の大友宗麟と戦いをしていました。

大友氏は滅亡寸前まで追い詰められます。

 

そこで既に四国、中国を支配していた秀吉は薩摩と大友両氏に停戦を命じます。

しかし、薩摩は応じませんでした。

 

結果、1586年9月に秀吉(この頃、秀吉は豊臣姓を名乗ります。)は九州征伐を行い、薩摩を屈服させました。勇猛果敢な薩摩軍は良く奮闘し、互角以上の戦いを演じることもありましたが秀吉が率いる大軍に敗北します。

 

戦後、薩摩は旧領の薩摩、大隅の二国と、日向の諸県郡が与えられた。

薩摩に侵略された大名の中には秀吉に領土没収されたものもありましたが、何故か薩摩は旧領を安堵されました。

 

石田三成に好意を持つ

戦後処理の為に石田三成が代官として薩摩にとどまりました。

近代的な財政のたて方を細かく、親切に指導しました。

そのためか島津義弘は秀吉の知恵袋である三成と親しくしくなっていきます。

 

薩摩は言葉が通じにくい、しかし強い。

以前から薩摩の侍の言葉は分からない。何を言っているのか通じない。

という評判がありました。

この頃、他国者同士の標準語に似た話し方がありましたが、

薩摩はそれを知らなかったのかも知れません。

 

つい最近までの事ですが青森の津軽かな、その人と鹿児島の人が会話をしようと

するとまるで通じない。同じ日本人なのに外国人同士が話している様で

お互いにチンプンカンプン。てな笑い話がありました。

 

 

その為、諸侯との付き合いも余りなく、中央(この頃は上方)の情勢にも疎かった。

しかし、そんな薩摩は中央からは尊敬のまなざしで見られている事があります。

 

「薩摩は強い」。それと戦国の下剋上で成り上がりの大名が多い中で、由緒正しい

戦国の世では数少ない名家です。

源頼朝御家人で地頭に任命されています。後に戦国大名となっていきます。

 

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 島津義久の像です。

 

島津の軍団は強く、日本一と評されています。

秀吉が行った朝鮮の役の中で、洒川の役での戦いが凄い。

島津は1万足らずの兵力で20万の明軍を破り、明兵38,077にを討取りました。

明軍と朝鮮軍は「シーマンヅ」と呼び鬼神の様に恐れていました。

 

こうゆう事があり、島津家を田舎大名とさげすむ人はいませんでした。

 

情報に疎いため豊臣と徳川の争いに翻弄される。

義弘は200人の部下を引き連れ伏見の薩摩屋敷にいました。

徳川家康会津上杉景勝を討つ重大な譲歩を義久に打ち明けます。

 

その際、手薄になる伏見城を主将となって守って欲しいと頼みました。

ところが、伏見城の主将である鳥居彦右衛門に追い返されます。

 

家康は諸将を引き連れて東北の会津にいる上杉討伐に向かっており、上方には

すでにいませんでした。これは家康にだまされたのだと後で気が付きます。

でも義弘は、これを聞き国元に軍団の派遣を要請していました。

 

ところが、薩摩は秀吉の島津征伐、朝鮮出兵、しかも最近、薩摩藩内部で内乱が

おこり鎮圧されました。

それやこれやで、財政が困窮しています。

 

家康が会津を討つというのは私闘であると思い、国元は静観することになります。

 

結局、大阪において薩摩は右往左往する事となります。

 

それを、国元の武士が知ります。

「上方で大乱が起こる 薩摩は少数で立ち往生している。

御家は派兵をしない」という噂が城内や野山に響き渡りました。

 

島津家の武士は殆んどが在所におり、田畑で自給自足の生活をしています。

しかも専業の百姓と違うところは出陣の命令ががいつ来てもいいように、

常に槍に旅費と武者わらじを結び付け、田の畔に突き刺していました。

 

武士たちは槍を引き抜き、武具を背負い上方に向け駆け出します。

騎馬のものもいます。

何というか、単純にお国柄と言い切れない凄まじさです。

 

それが大阪に集結し、島津勢は総勢1500人になりました。

 

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関ケ原古戦場の碑

 

関ケ原の合戦が始まります。

ついに、関ケ原で戦いが始まります。最初のうちは毛利輝元を総大将とする西軍

が有利でしたが、小早川秀秋の寝返りし、西軍は総崩れとなりました。

実際には毛利は動きませんでした。石田三成は性格が災いし人望はあまり

ありませんでした。

 

しかも、義弘が必勝の戦略を提案しても石田三成に拒絶され、いやけがさした薩摩軍は

戦闘をしていませんが、徳川勢は薩摩を西軍と見ています。

 

島津軍は退路を断たれ、四方を囲まれ窮地に陥ります。義弘は驚くべく決断を

します。

敵の中央を突破です。

突破し、海路薩摩に向かいます。生きて薩摩にたどり着いたのは数十人でした。

 

戦後、徳川家康は島津征伐を命令したが、実際に戦いは行われづ、島津の本領は安堵されました。一説には家康が伏見城を守ってくれと、義弘を騙した負い目があったのではとの観測もある。

 

薩摩のこの結末は、どの様にして起きたのか。

中央の情報を常に集めていなかった事、言葉が通じないことで諸大名との交わりを

殆んどしてこなかった。外交努力をしてこなかった。

 

これにつきます。

これ以降、島津は中央の情報を積極的に収集します。

そして幕末の西郷隆盛はその役を担い、ついには徳川の長く続いた日本統治を

終わらせます。

 

 

ここまで読んで下さり、有難うございます。