あだり ほどり

思いついたまま書いているブログです。お付き合い下さい。

新撰組 幕府が負けたので賊軍の代名詞に。本当は誠を貫いた大忠臣だったのでは

最後まで幕府に忠誠をつくした新撰組

新撰組ってご存知ですよね。

歴史の激動期に結成され幕府の為に尽くします。

しかし幕府は政権を朝廷に返してしまいますが

朝廷側のやり方に不満を持つ旧幕府の侍たちは最後まで戦います。

新撰組も鳥羽伏見、奥州も列藩同盟を組織し戦いをつづけますが

拠点は次々と落とされていきます。

会津への異常なまでの敵意を持つ新政府軍は徹底的に追い詰め

遂に函館で抵抗は終わります。

 

新撰組は長く賊軍の代名詞に

生き残りの新撰組は最後の函館で戦い、ついに壊滅することに

その後、長く賊軍の代名詞のように扱われます。

 

子供の頃、漫画や映画ではいつも悪役でしたね。

近藤勇は悪の親玉で嫌われ、沖田総司なんか口から血を吐きながら

人を切りまくる。

それを描いた浮世絵みたいなものが残っている様です。

 

成人して暫くすると段々に映画やドラマでのイメージが変わってきました。

確かに新撰組の扱い方がだいぶ違ってきましたね。

でも、切られた方の尊王攘夷派の侍たちから見れば大悪党にしか見えません。

彼等の同志が新撰組のオーナーの徳川幕府を倒し

明治新政府を作り上げていきます。

 

この記事は武力自慢の武士たちが、自分達の行動が正義と信じて最後まで戦った

悲しくも愛すべき記録です。

 

 

 

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目次

 

ある男の告白

今、普通に使われているグレゴリオ暦では1868年1月25日が明治元年となります。

大正2年(1913)年北海道小樽で、ある男が自分の過去を新聞記者に語ります。

その前に孫たちに話した事が広まり、それを新聞記者が聞きつけ取材に来たので

しょう。

 

「私は元新撰組2番隊長 永倉新八である」

75歳の老人が語り始めます。

孫たちはびっくりしたでしょうね。

 

爺ちゃんがあの新選組の・・・

しかも大幹部だった。

 

子供や孫にも隠していたのでしょうね。

警察に知られれば捕らえられるんでしょうか

明治時代の刑法に時効という項目はあったのでしょうかね。

 

勝てば官軍、負ければ賊軍

宮城県にも平家の落ち武者部落の歴史があります。

宮城ばかりでは無く山深い地域には数多くの落ち武者部落が

存在します。

なぜかと言えば、見つかれば処刑されるからです。

 

でも、この時の取材のおかげで新撰組の活動の生々しい生きざまが

世に知られる事となって行きます。

 

幕府と諸藩の弱体化

その頃幕府を含め、諸藩の殆んどは財政が火の車でした。

義務である参勤交代、その為国元と江戸での二重生活。

お金はどんどん足りなくなります。

止む無く、幕府は長年続いた参勤交代を廃止します。

 

ペリー等が来て開国を迫った事にもよりますが

幕府は諸藩に命じて海岸の防御を命じます。

何しろ金が無いし、約260年間 戦がありませんでした。

 

戦国時代の鎧を着こんで、火縄銃を携えて列強に立ち向かおうと

備えますが、中には金が無くて家伝来の鎧や槍が質草になり

取り戻そうにも金がない武士が多かったとか。

そんな訳で、てんやわんやの大騒ぎになります。

 

中には海岸にお寺の釣り鐘を並べて、大砲に見せかける藩まで

あらわれます。

たった4隻の黒船の為に大騒ぎとなりました。

 

これでは列強に舐められてしまいますね。

武力の差は如何ともしがたく

幕府はなし崩しに港を開港していきます。

 

幕府を見限る藩や武士が続出

これは武士から見れば許せない事でした

日本は神代の昔から神聖な国である 外国に勝手な事はさせられない。

幕府の上に伝統のある天皇がいる。

幕府に変わって国政を見てもらい夷敵を追い払おう。

そういう考えが台頭してきます。

尊王攘夷の思想です。

 

 

もう幕府は駄目だ、国を憂える武士たちが脱藩して京に集まってきます。

当時の天皇は欧米人を毛嫌いしていましたから尚更ですね。

弱腰の幕府の高官を暗殺したり、外国人を襲い始めました。

 

イギリスやフランスの列強諸国は中国の侵略のターゲットは日本と見ていた

のかもしれません。

後に列強諸国は双方に資本を貸そうと躍起になります。

その目的は

簡単に言えば、敵対する集団を討伐する為に、

フランスが武器や金を出すから南西の端の鹿児島藩を譲り受ける。

ロシアが同じ条件で北海道を租借する

そんな危険をはらんでいました。

 

何しろ幕府にはあまり金がない。

敵対する諸藩も金がない。

例外は幕府に内緒で奄美大島を支配してとんでもない重税をかけたり、

琉球(今の沖縄ですが)を領土としたり、密貿易で儲かっていた薩摩藩

くらいかも。

 

でも、その頃の武士たちは刀で立ち向かえると思っていたようです。

確かに武士は強いですね。

肉弾戦になれば圧倒的に武士が強いでしょう。

 

でも、銃や大砲には勝てるはずはありませんね

近寄る前に死人の山を築くだけです。

  

そんな情勢の中で武蔵野国多摩郡(今の東京都調布市)の腕自慢の

武士たちにも時世の波が押し寄せてきます。

 

田舎の剣術の道場主 近藤勇

ここに一人の男がいます。近藤勇という名の男です。

彼の流儀は天然理心流。

元々は百姓を生業とする宮川家の3男でした。 

14歳の時に天然理心流 試衛館に入門。

目録を得て道場主の近藤周作の養子となり、後に近藤勇と名を変える。

 

近藤勇がいたこの多摩の地は

韮山の代官である江川太郎左衛門の支配地でした。

その影響もあり

一朝事がある時は将軍家の御馬前に馳せ参じる

という気風が村民の間にはありました。

ゆえに、剣術が盛んで

近藤勇は村一番のガキ大将でした。

 

26歳で天然理心流宗家四代目となる。

 

江戸には当時剣術の三大流儀があり

桃井春蔵士学館 鏡新明智流 日本橋茅場町

斉藤弥九郎の練兵館 神道無念流 九段坂

千葉周作玄武館 北辰一刀流 神田お玉が池

 

それから見ると彼の道場は主に百姓や浪人に剣を教える

いわば田舎道場でした。

 

しかし彼の下には腕自慢の剣士が集まってきます。

先程の松前藩脱藩 永倉新八神道無念流の免許皆伝、

剣道の修行のために脱藩した人です。

脱藩の理由が剣道の修業とはすごい人ですね。

 

その他にも斎藤一藤堂平助等がおりますが、

彼等は強敵が道場破りに来ると試衛館から呼ばれます。

当然、相手を打ち負かします。

彼等は脱藩していますから試衛館が居心地が良いので

普段から遊びに来るようになります。

近藤の人徳なのかどうかは分かりませんが

嫌いな人に他の人達は寄ってきませんから、親分肌だったのかも

知れませんね。

 

 

清河八郎の誘いに乗り京へ

彼等も時世に乗る時が来ました。

山形の荘内藩脱藩の清河八郎が幕府政治総裁である松平春嶽に接近し、

徳川家茂が上洛する際の前衛(警戒、護衛、攻撃の為に置く人員)として

浪士団を京へ送る許可を得た。

 

近藤達試衛館の武士たちも参加します。

清河の陰謀とも知らずに

この人は勤皇討幕の人です。

天皇を国の最高権力者とし徳川幕府を倒す

そんな人の進言をまともに受けて、承認してしまう。

幕府の中枢や浪士たちは騙されてしまいます。

 

松平春嶽

  1. 攘夷 イギリス、アメリカ、フランス等の夷敵を打つ
  2. 大赦 幕府に投獄された志士たちの恩赦を実行する
  3. 天下の英才を教育くする

を提案しました。

これは「急務三策」とよばれますが、まんまと春嶽は騙され

幕府に採用されます。

 

策士 清川八郎の計画は現実となり

義勇の士を募集する事となります。

235人の武士が将軍上洛の前衛になる為参集します。

その中には趣旨に賛同した

試衛館の面々も参加していました。

 

ちょっと疑問 何故徳川家の兵を招集しないのか

徳川家には直参の旗本とか御家人が大勢いるのに

その次男とか三男を徴集しないで

何故、浪士を募ったのか不思議ですよね

しかも費用は幕府持ちで

 

作家の司馬遼太郎さんは幕末の自書で

「長く続いた大平で旗本や御家人は士気が緩み、中には貧乏で

その日暮らしの武士が多い。使い物にならない」

と、よく書いています。

 

それが本当であれば、士気盛んな浪士の方が頼りになる。

という事のようです。

 

清河八郎 策に敗れるが近藤らは京に残る

京に着くと清河は朝廷に建白書を出します。

その内容は勤皇討幕です。

これを知った近藤勇等と芹沢鴨の一派はたもとを分かちます。

 

清河八郎天皇から受理されますが

この事は幕府にも知れ、清川は命を狙われることになります。

残りの200数名は江戸へ帰る事に

 

人を騙して成功はおぼつかなかった。

同じ年に清河八郎は幕府からの随行員として参加していた

佐々木忠三郎に不意を撃たれ絶命します。

維新後、清河八郎正四位の追贈され、生まれ育った清河に

神としてまつられ清河神社が建てられました。

 

私も以前キャンプに行く途中で立ち寄って見学したことがあります。

幕末の歴史が好きで小説などを読んでいましたが、

清河八郎の名前はよく出てきます。

あの清川八郎の神社がこんなところに

最上川沿いの国道47号線 鶴岡街道沿いにありますが

何となく寂しげな神社だったのを覚えています。

 

清河八郎天皇を擁する側が勝利したゆえに神となりました。

 

 

何はともあれ

近藤勇の試衛館仲間と芹沢のグループ他は京へ残り、

幕府の為に力になろうとします。

 

 

新撰組誕生 内部抗争

京都残留を決めた近藤らは24名

壬生浪士組発足時は17名でした。

近藤派:8名

芹沢派:5名

その他は

殿内義雄:暗殺 幕府の隠密で浪士組の探索 近藤勇に暗殺

根岸友山一派と粕谷新五郎 脱退

阿比類鋭三郎:病死(暗殺との説もある)

 

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壬生寺

 

働きが認められ「新撰組」の隊名を賜る

薩摩藩主導で長州藩を京都の政局から排除するという政変が起き、

新撰組も御所を警護する任についたが、これは目立った働きが無いが

その後の長州藩勢の残党狩りには活躍した。

その恩賞である。

 

近藤勇主導の体制になる

何かと問題を起こす副長の新見錦切腹させ、芹沢鴨を暗殺した。

これにより芹沢派は一掃されます。

新撰組が一部には暗いイメージを持たれる人が多いのはこの辺からです。

 

新撰組組織

局長近藤勇

副長土方歳三

総長山南敬助

参謀伊東甲子太郎

 

組長・組頭・副長助勤

一番組組長沖田総司

二番組組長永倉新八

三番組組長斎藤一

四番組組長松原忠司

五番組組長武田観柳斎

六番組組長井上源三郎

七番組組長谷三十郎

八番組組長藤堂平助

九番組組長鈴木三樹三郎

十番組組長原田左之助

 

新撰組の中で誰が一番強かったかとよく話題になりますが

沖田総司が凄かったと言われていますね。

道場の試合では

土方歳三井上源三郎藤堂平助山南敬助は子供扱いされ

師匠の近藤勇も沖田が本気になれば敵わない。

と、永倉新八が語っています。

 

沖田総司についてこんな話があります。

返り血を浴びない。どういう切り方をするのか分からないが、

総司は相手を切っても返り血を浴びない

という驚きの話が残っています。

やはり天才なんでしょうね。

稀代の剣客 沖田総司結核を患い、若くして世を去ります。

今はどうか分かりませんが、

私が30代になった頃でも彼の墓には花が絶えた事は無かったとか。

 

池田屋騒動、禁門の変

討幕派の中心長州藩は過激な行動に出ます。

祇園祭の前の風の強い日を狙って、櫃橋慶喜、徳川容保を暗殺し、

その隙に乗じて御所に火を放ち天皇を奪い、長州にお連れするという計画を

立てます。

予てから長州藩士の動きを探索していた新撰組

四条小橋上ル真町の炭薪商の枡谷喜右衛門(古高俊太郎)を怪しみ

店を調べると多数の武器や長州藩との書簡を発見し、古高を捕縛した。

 

厳しい拷問が続き、ついに古高は口を割ります

長州藩土佐藩肥後藩等の過激志士が池田屋か四国屋に集まり

実行するかどうかの会合が行われることを突き止める。

 

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新撰組は2手に分けて集合する場所を捜索することになり

近藤は池田屋、土方は四国屋の2隊に分けます。

実際は3隊との説もありますが

 

集合場所は池田屋と判明するも相手は20数名

近藤隊は近藤勇沖田総司永倉新八藤堂平助の4人のみが切り込み、

残り3名は裏口を見張りました。

乱闘の末、熊本藩士 宮部鼎蔵(みやべ  ていぞう、尊王攘夷派のリーダー)、

長州藩士 吉田利麿、石川潤次郎、土佐藩脱藩 北添佶磨、望月亀弥太 

等9名が死亡

 

新撰組では裏口を守っていた3名が乱闘の末全員が負傷し、事件後負傷が

もとで全員死亡。

 

乱闘の最中に沖田総司は血を吐き、藤堂平助は油断の為負傷。

近藤、永倉の2人だけとなりますが

後から駆け付けた土方隊が切り込み、壮絶な戦いとなります。

結果、新撰組の勝利となります。

 

この後、長州藩は勢力奪回の為に大挙して京へ押し寄せ

禁門の変(蛤御門の変とも言う)が起こります。

大きく言えば

長州藩会津、薩摩の戦いです。

激戦の末、長州藩は破れ、ほうほうの体で長州へと逃れて行きます。

 

この2つの戦闘での新撰組の戦いは見事で幕府から恩賞が出ます。

何故か朝廷からも。

 

勝てば官軍か・・・

 

近藤勇 御目見得以上の旗本に昇進

後に新撰組は隊士全員が幕臣となる

幕臣になるという事は幕府から給金が出るという事です。

近藤は御目見得 (おめみえ) 以上の格となり旗本となります。

御目見得以上とは将軍と謁見できるという待遇ですね。

 

多摩の田舎道場の主が風雲に乗じて大出世を遂げる

日本は未曽有の激動期にあります。

 

粛清の嵐

後に新隊員を募集し、最盛期は200名を超える集団となって行きます。

隊士も多くなり、思想も考え方も違う烏合の衆が増えてきますが

そこで土方歳三 (ひじかた  としぞう) は隊を統率する為に局中法度という

隊の規約を作ります。

なかなかに厳しい規約で

背けば切腹です。

脱退したものは見つけられ切られる、背を切られた隊士は相手に背を向けて

逃げようとしたと見られ切腹

 

山南敬助切腹

草創期からの同志である総長の山南敬助 (やまなみ  けいすけ) は、新撰組

ありかたに疑問を持ち

脱退します。土方は沖田総司を追っ手に向かわせます。

山南と沖田は仲がいい、他の者では切り合いになる。

そういう判断です。

山南は覚悟を決め沖田と共に隊へ戻ります。

総長である大幹部も規律を破れば切腹 厳しい掟は実行されました。

 

伊藤甲子太郎 油小路でだまし討ち

近藤勇が江戸等で隊士募集をした折に

深川に道場を構える伊東甲子太郎 (いとう  かしたろう) と知り合います。

この人は北辰一刀流の道場主で

副長助勤の藤堂平助は弟子にあたります。

藤堂の 口利きで弟の鈴木三樹三郎や門弟多数と共に

新撰組へ入隊します。

 

しかし、近藤は佐幕(幕府側)であり、

伊東は元々水戸学を学び勤皇(朝廷)の考えです。

攘夷だけは同じですが

二人の考えは相いれる事はありません。

初めから分かっている事なのに何故入隊を許したか、これは疑問です。

ただ単に人数が欲しかっただけか。

 

容姿端麗で話も上手い伊東と質実剛健だけが頼りの近藤はついに

たもとを分かちます。

隊は分裂します。だが敵対勢力となったわけではありません。

 

隊を離れる名目は薩摩藩の動向を探るのと御陵を守るを目的とし

御霊衛士 (ごりょうえいし) を結成します。高台寺党とも呼ばれますね。

同士は14名であり、当然かもしれませんが弟子の藤堂平助も参加します。

その中には何故か斎藤一の名もあります。

斎藤一新撰組から送られた間者(スパイ)ではとの説がありますね。

 

近藤は自分の妾(めかけ)の家へ伊東甲子太郎を招き、もてなし

安心しきって酔ってしまった伊東は帰途  油小路で暗殺されます。

暗殺したのは大石鍬次郎 (おおいし  くわじろう) 等数名の新撰組隊士である。

 

油断してましたね、剣の達人  伊東の腕を恐れ安心させ、酔ったところを襲う。

近藤の策にはまりました。

彼の遺体は油小路に捨てられたままにされました。

御霊衛士の残党を討つためです。

 

罠にはまった御陵衛士待ち伏せていた新撰組と乱闘になります。

藤堂平助もここで闘死します。

「藤堂だけは殺したくなかった」事件後ある新撰組隊士がつぶやいています。

 

余談ですが

以前、香取慎吾近藤勇役の大河ドラマ新撰組 !」がありましたね

あのドラマで藤堂平助役が中村勘太郎、現在の中村勘九郎です。

良い演技をしたのを今でも覚えています。

油小路で切られた時はちょっと悲しかった。

今年の大河ドラマ「いだてん」の主役です。

 

余談ついでに

油小路で騙し討ちにあった伊東甲子太郎

とても穏健な考えの持ち主で、天皇を中心にして機内5か国を直轄領とし

徳川家もその政権に参加させる。

という建白書の一部が殺害後見つかりました。

これって坂本龍馬の考えと似ていますね。

非常に穏健な考えの持ち主です。

二人とも、たぐい稀な剣客であったため卑怯な手で暗殺されますが

両人とも生きていれば明治新政府

もっと違う形になったのでは

そんな気がします。

 

その後、高台寺党の残党は馬に乗って道を進む近藤勇を襲撃します。

銃で撃たれた近藤は逃げ延びますが重傷を負いました。

何とも凄まじい遺恨が残ります。

 

新撰組の凄まじい内部粛清は後々まで遺恨を残し

近藤が処刑されるのもそれが原因の一つです。

 

鳥羽伏見の戦いで敗北

慶応3年徳川慶喜大政奉還を宣言しました。

徳川家はこれに依り一大名となります。

依然として日本第一の勢力は保持していますが

 

何が何でも徳川家を滅ぼそうとする薩長を中心とする勢力は

武力を結集して進撃を始め

鳥羽伏見において先端が開かれます。

 

慶応4年の戦いですが、この年が明治元年です。

1月3日からの戦いが戊辰戦争の始まりとなります。

 

伏見奉行所に布陣した新撰組幕府軍はこの軍と対峙します。

 

すでに坂本龍馬等の仲立ちにより長州と薩摩は手を結び

薩長同盟が成立し、一大勢力となっています。

 

この時幕府側の戦力は15000人、薩長土等の討幕側は5000人

数の上からは幕府側が圧倒的に優位だが

新式重火器を持つ討幕側が実戦では優位に立つ

 

4日 討幕側が錦の御旗を掲げ、幕府側は動揺し、戦意を失う

6日 徳川慶喜大阪城から逃げ出す

7日 朝廷より慶喜追討令が出る これに依り幕府軍は朝敵となる

 

奮闘空しく新撰組は隊士の3分の1が戦死し、土方歳三を主将とし

残存隊士は幕府軍艦に乗船し、一路会津へと向かいます。

 

近藤勇の死

鳥羽伏見の敗戦の後、甲州勝沼の戦い板垣退助の軍と合戦したが、

破れ敗走し江戸へ引き上げる。

近藤と土方は隊士の募集をし227名となる。

近藤は名を大久保大和と改めます。

 

新政府軍はに日光道を進軍したが、新撰組が流山で背後を襲う計画を知る。

近藤は何故か新政府軍に出頭したが、大久保大和は近藤勇と知るものがおり、

板橋宿迄連行されることになります。

そこには、新撰組に暗殺された伊藤甲子太郎の御陵衛士の生き残りがおり

正体が暴露され捕縛されてしまいます。

 

近藤勇は朝廷と幕府を一体化させて政局を安定させる

公武合体 (朝廷と幕府が手を結ぶ) を思想としていました。

 

土佐藩薩摩藩との間で近藤の処遇を巡り対立するも、土佐藩谷干城

押し切られ処刑されることになります。

大勢の長州藩士を殺害された恨みは半端では無かった

という事ですね。

 

彼は処刑されました。三条河原で三日間さらし首にされ

死体の埋葬、葬儀も許されなかった。

今だに彼の首が何処にあるか知れぬとの事です。

 

 

一説では近藤の首は仲間の手で会津まで運ばれたと言われていますが、

墓石には名も刻まれず、今ではどこに墓があるのかもわからない。

 

会津藩は袋叩き

幕末当時、日本の最強武士団は薩摩と会津と言われていました。

会津に同情的な奥州列藩同盟の諸藩は新政府に対して

会津藩庄内藩の赦免嘆願を願い出るが、会津憎しの新政府は

これを却下し会津へ進軍します。

 

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新政府軍は朝廷を主とした軍であるので他の諸藩は続々と新政府側に

寝返って行きます。

錦の御旗の威力は絶大です。

会津藩明治新政府に対して謝罪をせよとの通達に対して拒否します。

それと新政府の鎮撫使である世良修蔵仙台藩士が殺害してしまいます。

 

この男はとんでもない男で大藩である仙台藩会津討伐に向かわせよ

との命を受け仙台藩に来ますが藩主や重役に無礼を働きます。

その他に略奪や婦女暴行を公然と部下に命じます。

それに憤った藩士が切り捨てたのです。

本来ならばこの藩士は褒めたたえられねばなりません。

でも官軍の幹部です。馬鹿でも悪魔でも官軍です。

現に世良修蔵の事を「悪魔・・・」と書いている記事もあります。

虎の威を借る狐そのものですね

 

東日本大震災の時に来た時の復興大

彼も似た様な男でした。

宮城県知事に甚だ無礼な事をしました。

仙台出身の私としてもこんな人間は嫌いです。

 

会津藩など旧幕府側は賊軍になりました。

官軍という立場になった者の中には、増長した態度をとる人間

も出てきたのでしょう。

こういう時に、その人の本性が出てきます。

 

新撰組は賊軍とみなされた会津藩と共に戦います。

土方は伊達藩に応援を要請する為に仙台へ

後を担ったのは斎藤一

彼は大活躍します。

 

しかし、力戦奮闘するが形成は如何ともしがたく会津は降伏します。

余程、政府軍は会津を憎んでいたのでしょうね。

残虐な行為をします。

 

町が戦火で焼かれ、その煙を城が燃えていると勘違いした

白虎隊が全員自決します。一人死にきれなかった子供がいたようですが

政府軍は白虎隊の埋葬を許さず、野ざらしにします。

見かねた農民が後に埋葬しますが

現代でいえば中学生や高校生の年齢です。

余りにむごたらしいやり方ですね。

 

会津藩の戦後

藩主 徳川容保は鳥取藩お預かりの禁固刑

藩は新政府に移封先を猪苗代と斗南のどちらを選ぶと迫られ

猪苗代では多くの家臣団を入れるわけにはいかず

やむなく不毛の地とされる斗南を選びます。

そうするしかなかったのです。巧妙な明治政府のやり方です。

結果、多くの家臣等が厳しい環境の下で斃れて行きます。

その数はおびただしい数になります。

 

後年、昭和61年に旧長州藩山口県萩市から会津若松市

「もう120年もたったので」と会津戦争の和解と友好都市の締結を申し込まれたが

「まだ120年しか経っていない」と断られます。

 

他にも会津の親は娘たちに長州の者との結婚は許さん

と、長く言いきかせていました。

それ程、明治新政府軍のやり方は残酷を極めたようです。

 

五稜郭で土方斃れる

旧幕府艦隊の司令官である榎本武揚や陸軍奉行  大鳥圭介らと共に

土方歳三新撰組の敗軍をまとめて北海道  五稜郭に敗走します。

ここで旧幕府軍は榎本を総裁とする「蝦夷共和国」を樹立

土方は函館市中取締、陸海軍裁判局頭取となり、軍事治安部門の責任者と

なります。

 

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旧幕府側の軍艦は奮闘しますが、新政府側の鋼鉄艦に破れ撃沈される艦が多く

海軍力は低下します。

旧幕府側の大砲は射程距離が短く、港を守る味方を守る事が出来ない。

新政府側の大砲は射程が長く、旧幕府軍を悩ませました。

 

敗戦の色が濃くなるにつれて降伏をとなえる幹部が増える中

土方歳三は断固として新撰組隊士と共に戦闘を繰り返しますが

 

遂に敵の銃弾が命中し絶命します。

明治2年(1869年)5月11日のことです。

しかし他の幹部たちと違い、徹底抗戦を主張する土方が邪魔で

味方から狙撃されたという説もあります。

今となっては知るすべもありません。

これで、新撰組は消滅します。

 

土方歳三 享年35歳

今だに、彼の墓が何処にあるかは不明です。

 

新撰組隊士のその後

永倉新八

冒頭紹介した永倉新八

甲陽鎮撫隊等に所属して戦いますが、その後米沢から江戸へ戻ります。

松前藩への帰藩が許される事となり、藩医の婿養子となります。

杉村義衛と名を変えました。

北海道の小樽へ移り樺戸修治館の剣術師範になりますが

退職後、江戸から名を変えた東京へ剣術道場を開きます。

この頃でしょうが近藤勇土方歳三の墓を建立します。

勿論、遺骨はあるはずはありません。

 

その後小樽へ戻る事になります。

記者に話した2年後の大正4年(1915年)  77歳で病没します。

 

この人が残した記録により新撰組の実態が世に知れるようになり、

新撰組の見方も変わってきます。

 

 

斎藤一

山口二郎とも五郎ともいいます。

試衛館時代は近藤勇等と親交はありましたが、浪士隊が京へ行く際は

同行しておらず、新撰組結成後の隊士募集で初めて入隊します。

斎藤一会津藩士ではとの説があります。

飯盛山で自刃した白虎隊の中に遠縁の若者がいたとか

 

会津藩が戦後斗南に移封された折りに同行し、藩士の娘と再婚します。

主仲人は元会津藩主  松平容保です。

このおりに山口五郎と改名する。

 

維新後は警視庁の警察官となりますが、西南戦争の時は内務省警視局の

警部補となり薩摩軍を切りまくります。

 

元、一般の旧幕府側の武士たちも応募し、警察官になり憎い西郷軍と

激しい戦いを繰り広げます。

西郷軍の切り込み隊に手を焼いていた政府軍もこれで

体制を挽回します。

 

戦後、政府より勲七等青色桐葉賞と賞金100円を授与されます。

(その頃小学校の先生の給料が6円とか、100円は今の金額だと

200万から500万円ぐらいです。

幅があるのは明治時代は物価の上下が激しかったせいです)

 

新撰組の元大幹部が警官に採用される、

名を変えたせいもあるでしょうが、不思議と言えば不思議です。

ただ大出世は出来なかった。元新撰組の大幹部を政府高官には出来ない。

そんなところかも。

 

大正4年(1915年)  9月28日 胃潰瘍の為に生涯を閉じます。

享年72歳。

 

永倉新八斎藤一は同じく大正4年に没します。

 

長い記事になりました。

新撰組を記事にしたい と思ったのは今年の1月かな

少しづつ本を読み返しました。

私の本棚には新撰組関係の本がいくつかあります。

 

子母澤 寛 「新撰組始末記」

司馬遼太郎 「新撰組血風録」「燃えよ剣

村上 元三 「新撰組

原  康史 「激録 新撰組

永倉 新八 「新撰組顛末記」

 

漫画も黒鉄さんのがあります。

 

しんせんぐみは「新選組」と「新撰組」の二通りの書き方があるようです。

この記事では一貫して「新撰組」と書かせて頂きました。

 

作者によって解釈が違い迷うこともありましたが、一番事実だけを記している

Wikipedia  さんの内容を主として書かせて頂きました。

若干、自分の考えも入れてしまいましたが

この辺はご了承ください。

 

何れにしても新撰組の活動は凄まじいですね、

池田屋騒動の為に維新が遅れたとか言われますし

内部抗争や規約の為に粛清される

これも他の組織ではありませんね。

 

やはり、暗いイメージはありますが

国論が二分され、戦闘の際は一丸となって戦いますが

終われば一人一人の考えに戻ってしまう

烏合の衆の集まりです。

 

隊の規律を守るためには厳しくせざるを得ない。

引き締めないと組織は成り立たない。

現代人には理解できるはずは無いでしょう

その当時に生きた人にしか分からない

そんなところでしょうか。

 

新撰組は真の忠臣

やはり徳川側から見れば大忠臣でしょうね。

壊滅状態になるまで戦いを続け

最高幹部が2人とも斃れる

これ程の忠臣はありません。

 

悪く言われ続けたのは賊軍となってしまったから

やはり

勝てば官軍

負ければ賊軍

 

函館戦争のおりの榎本武揚大鳥圭介明治新政府の高官となって行きますが

新撰組は永く悪人のレッテルを貼られたままでした。

 

 

「晴れてよし 曇りてもよし 富士の山

もとの姿は 変わらざりけり」

山岡鉄舟の詩ですが

何を言わんとしているのか

当時を命をかけて必死で生きた人にしか分かりません。

 

 

長くなってしまいました。

ここまで読んで下さった方、有難うございます。