あだり ほどり

思いついたまま書いているブログです。お付き合い下さい。

吉田松陰 10歳で教授。 事破れ処刑される。弟子たちが志を継ぎ国を救う。

吉田松陰とはどんな人、大河ドラマで見たり、例えば司馬遼太郎の「竜馬が行く」

とかでよく登場します。

大変な行動力のある人という位しか分かっていませんでした。

 

幕末に関する人物の記事を書いてみようかなと思い始め、数記事書いて

みましたが、

色々と調べているうちに、とんでもない偉人だと分かってきました。

 

この人が幕末に登場しなければ討幕も新政府樹立も遅れたでしょう。

でも、遅れた場合を考えるとゾッとします。

一時も待てない状態にその当時の日本は危険な立場に追いやられていました。

天が差し向けた救世主ではなかったのか。

実のところ漠然としたイメージしか持っていませんでしたので調べる事に。

 

天が下した凄い人物

幕末、中国地方の西方、長州藩にとんでもない天才が出現します。

まるで欧米の侵略を予見する様に

天が下した麒麟児です。

 

明治維新の精神的指導者と知られ、討幕論者でもあります。

 

彼の元に英才が集結し、薫陶を受け日本の最大の危機を

救う人材が育っていきます。

 

彼は処刑されますが、彼の薫陶を受けた弟子たちは

日本を救う行動を実践して行きます。

 

目次

 

とんでもない神童

江戸時代 毛利家には明倫館という学問所がありました。

松陰の幼名は寅次郎と言います。

 

寅次郎は5歳の時に、山鹿流兵学指南の吉田大助の仮養子となります。

間もなく大助が死去します。

 

寅次郎は5歳で兵学指南の跡継ぎになりました。

彼の少年時代はここで終了します。

 

何故か

叔父の玉木文之進が立派な兵学者にしようと

情け容赦ない教育を始めます。

 

資料通りとすれば

現在では幼児虐待で逮捕されます。

 

4年後、9歳になった寅次郎は明倫館に出仕します。

学問を習うためではありません。

 

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藩校明倫館南門

 

山鹿流の兵学教授となる為です。教授見習いとして出仕しました。

 

余談です

最近見かけなくなりましたが、年末の定例番組に

赤穂浪士」がありました。

赤穂浪士が主君の仇を討つために吉良邸に討ち入ります。

大石内蔵助が陣太鼓を打つ。

 

その陣太鼓の打ち方が、山鹿流陣太鼓です。

 

10才で山鹿流兵学指南に

とんでもない天才ですね。

10才の少年が自分よりも年上の生徒に講義をする。

 

考えてみて下さい。

大学の講堂で小学生が講義をしている。

それを熱心に生徒たちが聞き入っている。

凄い事です。

 

 

藩主 毛利敬親もこの情景を見て感心します。

11歳にして寅次郎は藩主に講義する立場になります。

 

二十一回猛子

にじゅういっかいもうし と読みます。

意味は

原文のまま記しますと描きたかったのですが、分かりずらいと思い

読みやすくしました。結構時間がかかりました。

 

二十一回孟子の説 ※出典:幽囚録

私は庚寅の年に杉家に生まれ、己に成長して吉田家を継いだ。

甲寅の年に罪を犯し牢屋に入る。神が夢に現れ、手紙を渡された。その文には

二十一回孟子と書かれてあった。

目が覚めてしまった。考えてみると杉の字はが集まって出来ている。

合わせて二十一である。吉田の字は吉がと口。田はと口である。

合わせて二十一である。

 

十一と十を合わせて二十一となる。残りの口を二つ合わせると回になる。

これで二十一回となる。

 

 

私の名前は寅次郎である、寅は虎に属しておる、虎は猛々しい生き物である。

私は生まれつき心も体も弱い人間である。猛々しい虎を師としなければ、

どうして本当の士となる事が出来ようか。

私は生まれてきて事に臨む際猛々しさを発揮したのは三回である。

 

今迄三回の猛をなしたが、残りの十八回の猛を行わなければならない。 

国家の為に、誰に咎められようと行動を起こさなければならない。

 

物凄い決意ですね。

 

アヘン戦争で清国が大敗

松陰はイギリスとのアヘン戦争で清が大敗したことを知ると

山鹿流兵学では列強諸国に太刀打ちできないと悟ります。

西洋兵学を学ぶため九州に遊学します。

 

次いで江戸に出て佐久間象山宮部鼎蔵等に師事し、兵学等を学びます。

佐久間象山松代藩兵学者です。思想家でもあり、剣術の才もあり

文武両道の士です。惜しくも暗殺されますが、弟子に勝海舟坂本龍馬等が

います。

 

東北を検分する為に脱藩

彼は友の宮部鼎蔵と東北旅行を計画します。

藩外に出るには長州藩からの通行手形が必要です。

通行手形が降りる前に藩外へ出ると

脱藩とみなされ重い処罰を受けてしまいます。

 

少し待てば許可が下りるのに、出発の約束の日を守るために脱藩してしまいます。

この辺がせっかちと言うか、後の事を気にしない太っ腹と言うか・・・

ある漫画を見ると悠長な顔をしていますが・・・。

下の画像を見ると真剣な雰囲気が感じられます。

 

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江戸にもどると、士籍剥奪、余禄没収の罰を受けてしまいます。

武士で無くなるし給与も無しという事ですね。

脱藩にしては罪が軽い感じがします。

普通は切腹ものですが。

 

二度の黒船乗船を果たせず

松陰は海外留学を計画し、弟子の金子重之輔と長崎に来ていたロシアの軍艦に

載ろうとしたが果たせなかった。

理由はロシアの軍艦が予定を繰り上げて出港してしまった為です。

 

2回目は

嘉永7年にペリーが再度来航した時です。

ペリーは日米和親条約締結のためですが。

松陰は金子重之輔と共に海岸にあった小舟を盗み、旗艦ポーハタン号に

漕ぎよせ乗船には成功しました。

しかし渡航は拒否され、運悪く小舟は流されてしまいました。

止む無く松陰たちは下田奉行所に自首する事になります。

 

松陰死罪を免れる

松陰は伝馬町牢屋敷きに投獄されます。

幕府の一部は松陰を処刑しようと計りますが、老中首座の阿部正弘等の反対により

国元で蟄居せよとの命が下ります。

長州の野山獄に幽囚させられます。

※幽囚とは捕らえられて牢屋に入れられること

1年後の安政2年(1855年)に牢屋から出る事を許され、杉家に幽閉となっります。

※幽閉とは一室に閉じ込められ自由も許されないこと

 

松下村塾を引き継ぐ

安政4年(1857年)に叔父が中心となって運営していた「松下村塾」を

引き継ぐ事に

松陰は松下村塾を開きますが、そこへ続々と若者たちが入塾します。

 

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生きた学問

松陰の教え方は 、一方的に弟子に学問を教えるのではなく、弟子たちと一緒に

意見を交えるという今までとは違う画期的な教え方でした。

水泳や登山も取り入れたというから当時としては斬新な教育法ですね。

 

優秀な人材が育つ

松下村塾には久坂玄瑞高杉晋作吉田稔麿

大勢の優秀な人材が育って行きます。

殆んどは維新を前にして、斃れて行きますが、生き残った伊藤博文等の

走り使いが明治新政府の要職についていきます。

 

松陰ついに処刑

安政5年(1858年)に松陰が激怒する出来事が起こります。

それは天皇の許しを得ずに幕府が日米修好通商条約を結んだことです。

この頃、日本の頂点は天皇であるという考え方が台頭しています。

背景には諸外国に対して幕府が弱腰であるという見方がありました。

 

むろん幕府も事の重大さを認識していました。

時の老中首座の間部詮勝アメリカと条約を結んだことに対する弁明の

ために上洛する事になっていました。

 

松陰は間部を待ち構えて条約破棄と攘夷の実行を迫ろうと計画します。

この時点では松陰も諸外国と戦って勝てると信じていたようですね。

しかも、受け入れられない時は老中首座の間部を討取るという計画です。

 

松陰は長州藩に対して大砲などの武器弾薬を借用しようとしますが、

拒絶されます。

 

次いで藩主毛利敬親が参勤交代で京を通るのを待ち受け、攘夷派公家と

会わせて、討幕の計画に参加させるという「伏見要駕索」を計画します。

これに驚いた久坂玄瑞高杉晋作桂小五郎等は松陰に対して

自重するよう懇願します。

 

信頼していた弟子たちにまで反対され、松陰は失望します。

さらには藩の重役たちにも不信を募らせていきます。

松陰は幕府に対しても激しい批判を展開していきます。

日本最大の障害は幕府である。討幕を実行するよう唱え始めます。

 

それを知った藩は再び松陰を山獄に幽囚されることになります。

 

安政6年(1859年) 松陰は安政の大獄連座させられ、伝馬町牢屋敷に投獄

させられます。

当初は他の投獄者が長州萩に滞在した折の確認のための投獄であったが、

松陰は老中首座間部の暗殺計画を自ら白状してしまいます。

 

松陰は斬首刑となります。場所は伝馬町牢屋敷

安政6年(1859年)10月27日 享年30.

 

一藩総ヒステリー

これを知った松下村塾の弟子たちは怒ります。

まるで長州藩が全員ヒステリー状態となり、ついに討幕に突き進みます。

 

激動期には英雄、豪傑が雲のごとく湧き出て来ると言います。

まさに長州藩はその様相を呈していきますね。

高杉晋作奇兵隊創始者ですが、ある人に言わせると

平時に生まれていれば狂人の烙印を押される人物である

しかし激動期の異常な時代に現れると天才的な才能を発揮する人物であると。

惜しくも激動のさなか病没します。

 

久坂玄瑞禁門の変で自決、吉田稔麿は京を火の海にし、その騒ぎに乗じて

天子を長州にお連れするという企ての為に池田屋にいたが、前述した宮部鼎蔵

等と共に企てを察知した新撰組に切り込まれ闘死します。

 

松陰の門下生の中心者の殆んどが維新達成の前に斃れていきます。

生き残った中心人物は桂小五郎(木戸孝允)ぐらいですね。

彼は西南戦争のさなか44歳で没しますが、

廃藩置県版籍奉還、四民平等、三権分流等を成し遂げました。

軍人の閣僚への登用禁止なども建言している。

 

吉田松陰のたぐいまれな頭脳と狂おしい程の情熱が、多くの麒麟児を

はぐくみました。

松陰と彼等がいなければ、日本は当時の清の様になっていたかもしれません。

 

 

ここまで読んで下さり、有難うございます。